正力松太郎は倒産寸前の読売新聞を日本一にした最初のヒント

倒産寸前の読売新聞を日本一にした最初のヒント

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日本の三大新聞といえば、朝日・毎日・読売の3紙とされていますが・・・

この3紙の発行部数の順で言えば

今では読売・朝日・毎日の順番になっているようですが・・

この読売新聞が3大新聞のトップに躍り出る最初のきっかけになったのが

読売新聞の粗と言われている正力松太郎の着眼です。

正力松太郎は、

東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省して

警視庁警務部長のとき大正12年の虎ノ門事件が発生し警衛責任者

として警視総監の湯浅倉平とともに責任を問われ翌年、懲戒免官となった。


後の特赦ありましたが、再び官界戻ること無く、当時の倒産寸前だった読売新聞社経営に乗り出しました。


当時の読売新聞の発行部数はたったの55000部でした。


おまけに大正12年の関東大震災になって新聞発行社へ危ぶまれるような危機的な状況に至っていました 。


その頃会社の業績を何度か上向きにさせようと苦労していたの時ある会議中の席の上で

広告部長は次のような提案しました。

「社長、芝浦の放送室からラジオ放送が開始されました。つきましては新聞の付録にラジオ番組の番組枠をつけ、そこにラジオ関係の広告を載せて、記載料をとってはいかがでしょうか 」


広告苦情らしい提案でしたが正力松太郎は即答を控え黙っていました。


突如正力は言いました。


「いやまて、それよりラジオ番組の枠を新設して、放送を聞く人にうちの新聞を読んでもらうようにしたほうがいい」


正力松太郎はラジオ番組の枠を新聞拡張の武器にしたしようと考えたのです。


この考え方は大当たりしました11月になってラジオ枠が新設されると


当時のラジオは現在のテレビ以上でしたから


大きな反響を呼び読売新聞


これを機に一気に販売部数を伸ばしていたのです。


この他に正力松太郎は新聞の部数をさらに伸ばすためイベントとして


日本にプロ野球を誕生させたり


さらには街頭や駅などにテレビ受信機を置いてテレビブームを演出したいのです。


正力松太郎とは・・・


正力松太郎を調べれば調べるほど

いろんなことが出てくる時には、

CIA のスパイだったこととか!

A戦犯だったという事まで

出てきて起訴はされていないみたいだが

巣鴨プリズン収容所の1人になったという資料もある。

まず一言では言えないが

読売グループに大きな影響力を持った人でしょう。



正力松太郎は、警察官僚を追われ懲戒免職に


なったがその後に警察官僚に帰ることもできたが 


それもせず倒産寸前だった読売新聞を


ここまで大きな一大企業まで育てた功績は 計り知れない。


警察官僚を懲戒免職になったことでハングリー精神に火がついたのかな?

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正力松太郎は他にも
このように呼ばれている・プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。



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